他人を気にするのをやめろ
私は鬱になっていた時期がある
正確に言うと気分障害で、他にもいろいろ併発していてある程度の期間通院していた
その頃は私の人生において最もつらく厳しくて、自殺を考えても行動に移す気力がないみたいな状態が続いていた
今ではすっかり元気とまでは言わないが、なんとか立ち直っている
この経験は私に多くの学びをもたらしてくれた
その多くの学びの中で私に最も大きな影響を与えたのがタイトルに書いた「他人を気にするのをやめろ」だ
以前の私は寡黙で言葉を吟味し、あまり自分の気持ちを口にすることはなかった
これは意見を持っていないということではなく、
たとえば職場で意にそぐわぬなにかがあったとしてもその場で発散させずに、飲み屋で仲のいい同僚と嘲笑するようなことをしていた
キャリアの浅い自分の意見は正しかったとしても聞き入れられない思っていたし、プロとしてその場を円滑に進めていると思っていたし、そのような振る舞いをする自分を大人だと誇らしくさえ思っていた
プライベートでも似たようなもので、不満があっても一歩引いて「どうせこいつには理解できない」と思うことで発散させていた
だがこれはただ逃げているだけで
真綿で首をしめるように、ゆっくりと私自身を蝕んでいた
その事に気づいたのは体調を崩してカウンセリングを受けるようになってからだった
私は最初から自分が正しいと思う意見を言わなかったわけではなく、何度か拙い説得を試みたこともあった
頑張って説得したところで必ずしも意見が受け入れられるわけではない
そんな事はわかっていたが、そこで行われるやり取りはその頃の私のチンケなプライドを傷つけるには十分だった
それから私は自分自身を守るために説得というコミュニケーションから逃げるようになり、それは他の場所へも広がっていった
耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になったつもりが、実際はチグハグで、今思えば滑稽だった
行動を起こさないと結果はわからない
わかっていても、非難される恐怖が、否定される恐怖が、見切られる恐怖が、嘲笑される恐怖が、私に何もできなくさせていた
あるとき、「全部想像通りになったとして、否定されたとして、会社に行けなくなったとして、引きこもっても死なないけれど、自殺すると死ぬ」そんな様な事を言われた
その時は何も考える余裕なんてなかったが、薬が効き快方に向くにつれて、だんだんと意味を考えるようになった
自分の考えを非難されたとして、上司や同僚に否定されたとして、尊敬する人物から見切られたとして、傍若無人な振る舞いをする人間に嘲笑されたとして、
だから何なのだ
私はそんなことでは死なない
本当に怖いのは、そんなちっぽけなことに囚われて自分の行動を制限してしまうことだ
それから薬で強気になった私は、他人にどう思われるか気にするのをやめた
もちろん最初はおっかなびっくりで、家に帰ってから脳内反省会が行われることも多かった
転職を経て新しい環境で優良な交友関係を築けたことで、成功体験として私に強く刻まれた
他人にどう思われるか気にするのをやめて、思ったことを話すようになると私は翼が生えたように自由になった
でもこれは良いことばかりではなく、ときに言葉が強くなってしまうこともある
最近色々なことがあって、必要以上に他人の心をえぐる事をしないように気を使い始めた
あのとき私に恐怖を与えた他人に、自分がなってしまわないようにと思ったのだ
テレビで喋ってる人とか、近所のおばさんとか、銭湯で話しかけてくる知らないおじさんとか、インターネットのお前らとか、みんな他人のやっていることに怒っている
自分に関係ないことでも、誰かが失敗したら、とにかく叩いて引きずり降ろす
失敗しなくたって、言い方がどうとか、なにかが不適切とか、昔の不義理とか、そんなのどうでも良くないですか?
感動ポルノと一緒で、よくわかんない正義感みたいなのによってニンゲンが消費されている
正論で他人を殴るのは気持ちいいかもしれない
でもそれって一体誰の為に行われているんですか?
誰も死ぬ必要はない
他人を気にするのをやめろ